復活した聴覚

 次第に音の無い世界が広がる、つまり難聴である。それなりに聞こえていた左耳もやがて機能しなくなり、殆ど無音の世界に閉じ込められた。不思議に電話の受話器を通す会話は出来るのだが、しかしテレビ音声が聞こえないし対面会話にとても不自由する。テレビなど聞こえなくても困らないけれど難題は店番で、長年の経験をもとに手探りのような「想像的会話」が続いたものだ。
 思いつくのは老化だ。しかし当たり前と思いながらもどこかで拒否したい気分になる。老化以外の原因があれば治療可能なわけで、周囲の勧めもあり結局クリニックを訪ねることとなった。
 「耳垢だね」名医の誉れ高いドクトルS藤は事もなげにそう言った。日に三度薬をさして、3日ほどで柔くなったところで取り出すのだそうだ。3日目の午後クリニックの治療室で店主の聴覚は復活した。最初に届いたのは待合室の子供達の声だが、やがて忘れていた音社会が一気に押し寄せた。水洗トイレなど吸い込まれるほど恐ろしく聞こえたし、テニスの自打球音は驚くほど金属的響きだ。長年乗りなれた自家用自動車は喧しくて仕様がなく、高級セダンが突然ポンコツ車両に取って代わられた気分だ。
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